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 光の向こうに 〜ブラインドサッカー 07/03/23 (金) <前へ次へindexへ>

 運命
 

 文/杵川希(キネカワ イツカ)
 出会いは唐突だった。正直に言えば、渋々だった。日本ブラインドサッカーの成長と発展を現場で見てきた田中重雄氏(24)は、この出会いを運命だったと振り返る。

 スポーツマネージメントの専門学校に通っていた頃、課外授業の一環としてブラインドサッカーに出会った。数ある授業の中からブラインドサッカーを選んだ理由は素直なものだった。
「ただなんとなく、簡単そうだったから」
 決して視覚障害者サッカーというものに興味があったからではなかった。

 当時の日本ブラインドサッカーは、それは大変なものだったという。
「練習といったって何をどうすればいいのかわからないし、何が良くて何が悪いのかもわかりませんでした。僕にしても、初めはやっぱり障害者との付き合い、でしかなかったんです」

 実際のプレーに関しても大いに苦しんだ。
「サッカーをしたことがない選手は多くいて、彼らは怖がってボールに触ることも出来ませんでした。また、サッカーをしたことのある中途全盲の選手もサッカーのそれと同じようにはできませんでした。僕も学生の頃サッカーはしていましたが、教え方がわからなかった」

 環境も不十分だった。
「当時は場所を提供してくれる施設もなくて、練習といっても月に一回あるかないかという程度でした。また、日本全国に選手がいて、一箇所に集めて練習するとなったら、費用もバカにならないし、そもそも実現不可能なものでした」



 さっさと授業を終わらせて帰ろう。そう思っていた田中氏だが、見学者からはじまり、選手不足だった大阪ダイバンズのGKとなり、現在は協会スタッフとして、主に西日本ブラインドサッカーの普及に努めている。いつのまにか、彼はどっぷりとブラインドサッカー人間になっていた。

 選手としても素晴らしい実績を持っている。サッカーでサイドバックを努めていた彼は、実質GKを担うのはブラインドサッカーがはじめてだった。サッカーほどゴールは大きくなく、また、動ける範囲も非常に狭い(縦2m×横5m)。そのため必要最小限のGK能力を会得すればゴールが守れた。全体練習がほとんどできず、夜にこじんまりとチームメイトと2人きりで練習に励むこともした。そうやってブラインドサッカーに特化したGKとしての才覚を目覚めさせていき、日本代表にまで名を連ねた。

「居場所をみつけたって感じでしたね」
 障害者との付き合い、でしかなかったブラインドサッカーの日本代表に選出され、2002年5月の韓国との遠征試合でいよいよ実感したという。

 日本を離れ、盲目の選手達との短い共同生活や練習の中で、彼は選手達を仲間として見るようになった。また、選手達も彼を仲間としてみてくれるようになった。お互いが一線を越えることに成功した。選手と選手、晴眼者と全盲。そこに何一つ隔たりはなかった。共に戦える仲間、共に笑い合える友人。日々の会話や練習の中で、彼はブラインドサッカーにおける自分の居場所を確信した。

「はじめたばかりの頃のシゲは、ほんまに下手やったよ(笑)」
 チームメイトの評価も日に日に変わっていった。
「技術は申し分ない。選手とコミュケーションもとれる。シゲはほんとにうまい。あいつが率先して場所を探したり、時間を作ったりしてくれたから練習も定期的に行えるようになったし、日本一にもなれた」

 2005年11月、埼玉レッズランドで行われた全国選手権。大阪ダイバンズは所沢国リハとこちゃんず(現T−WINGS)を5−2で下し初優勝を成し遂げた。田中氏は、優勝チームのGKとして決勝以外の3試合を完封し、大会MVPに輝いた。



 現在は大阪ダイバンズを離れ、兵庫県で新しくブラインドサッカーチームを作ろうと活動している。チーム名はまだ決定していないが、選手は揃っており、来年度からの西日本フレンドリーカップへの参戦もほぼ決定させた。自らが先頭に立って推し進める普及と発展、歩みは順調だ。

 本当はスポーツマネージメントの仕事がしたかった。しかしブラインドサッカーに出会い、彼は教職の免許を取り、盲学校の体育教師になった。ブラインドサッカーの大会や講演など、その場所には必ず彼がいる。

「なにかしら、魅力的だと思ったからここにいるんだと思います」
 初めて知ったブラインドサッカーは、ボールに触れず、場所も時間もなく、サッカーと呼ぶには抵抗があるほど酷いものだった。しかし、怖くはなかった。障害者のスポーツだとも思わない。新しく知る楽しみは、いつだって、どんなものでも無償で手に入れることができる。グラウンドに足を運ぶだけで、それを実感することができる。

「今度は僕が、招き入れる側として、このスポーツを広めていきたい」
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