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| 札幌からのメール 07/06/06 (水) | <前へ|次へ|indexへ> |
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球根 文/笹田啓子 |
このGWに実家に帰省したときのこと。早生のチューリップが街のあちこちに咲いているのが、妙に気になった。国道沿い、それぞれの家の花壇、軒先、どこにいってもチューリップがいっぱい。チューリップは確かに一般的な花だからそれは決して珍しい光景ではない。でも、それにしても量が多い。
実家のある街には、道内で有名なチューリップ畑の公園があって、12.5ヘクタールの敷地に120万本のチューリップが咲くとあって、毎年花の開花時期である5月下旬から6月上旬にかけて約10万人の観光客が訪れている。私の周囲でも一度見に行ってみたい、という声を少なくなく聞く。
チューリップは町の花でもあったから、昔から馴染みが深い。といっても町をあげて盛り上げている!というよりは、誰かにもらった球根を無造作にそのへんに植えているだけ、少なくとも自分の実家の花壇はそんな感じだ。
公園だけでなく街中にチューリップの花が咲く。暮らしの中にあたりまえのように咲く花。地元の人の「無造作」は、しかしその人達が気付かない美しさを町に醸し出している。けれど地元の私の家族親戚は、じぶんたちの町への観光ツアーの案内が旅行代理店のパンフにたくさん出ていることを、知らない。じぶんたちの町の、よそにない美しさにあまり気付いてない。見慣れてしまえば咲き乱れる花も日常の単なる一場面。
あたりまえだと思っている景色は、決してあたりまえではない。だけど当事者は案外そんなことには気付かないで暮らしてしまうものだ。
JRで通勤していると毎朝、チームの試合のスケジュールポスターが張ってあるのを見る。JR北海道の特急定期券の宣伝ポスターに選手が起用されているから、それも見る。石井と藤田、ユースあがりの若手ふたりの素朴な笑顔の写真。函館や室蘭で試合がある前には応援ツアーのチラシがパンフ棚に立てかけられている。地下鉄で出かけることがあれば、地下鉄の各駅に設置された試合結果掲示板も目にする。今年は白い○がいっぱい書かれている。
「コンサドーレ札幌を応援します」という小さなメッセージが隅に印刷されたスポンサー企業のチラシ。それらは今はもうすっかり自分達の生活の中に当たり前のように溶け込んでいて、お世辞にも猛烈に盛り上がっているというわけではないけど、しかし肩肘張らずにチームはこの街に馴染んでいて、晴れの日に花を一斉に開かすときを待つかのように静かに静かに息をしている。
6月2日は厚別で京都戦。市内の小学校の多くが運動会、更に高校野球の春季大会決勝は駒大苫小牧、夕方からはドームで日ハム×阪神の交流戦があったから、動員は少し厳しいのかなと思った。それでも初夏の雲ひとつなき厚別の青空の元に約8千人の観客が集まる。
わたしはその日は会社が休みでなかったから、午前中の会議だけ出て午後から休みをいただいて厚別へ向かうことに。試合の日は笹田はそっちに行くともう周知徹底されて…していただいているので、お昼で「お先に失礼します」というと「行ってらっしゃ〜い」と皆に言われる。会社ではサッカーの話も野球の話も日常だ。
「厚別はドームと違って屋根がないから、こんな日は青空が気持ちいいのよ〜」
スタジアムに着いたら、これから入場しようというお客さんが会話している。どうやら初めて厚別で試合を見る人を連れてきているようだった。そうそう、厚別の青空は今日みたいな日にはなにものにも代え難いキモチヨサだ。雲ひとつない青空にカモメが飛んでいく(最近、札幌の街中にカモメが住んでいる)。
試合は、風上に立った京都が前半はそのほとんどの時間ボールを支配する。札幌は贔屓目にも攻撃の形を作れているとは言えない。攻撃に転じれば応援もビルドアップのコールをしたいのに、悲しいほどに続かないし、頻度もおそろしく少ない。なのになぜかチームは泰然としている。
ヒヤリとする場面が2度ほどあって、逆に札幌は2度ほどあったチャンスのうちのひとつをちゃっかりとモノにして、押されていたのに1−0で折り返す。勝っている気がしないのに、勝っている。そしてチームは圧されても最後はしっかり決め落ち着いて動いている。不思議な試合。
前半の途中、ボランチとDF、4人ほどで固まって何か話してまたすぐパッと散っていく。試合中に細かな修正を冷静に「調整」していくような感じ。そのときの選手達の背中の群れは、おなじひとつの場所からそれぞれの場所へ、きれいな角度で広がっていくようで。
縛られた自由。
そんな言葉を、今年のチームに時折感じている。「縛られた自由」というと語感はとても窮屈そうだけど、実際のところ、少しぐらい縛られているぐらいのほうが、程よい条件を与えられているほうが人は動きやすいのだ。縛られないこと、すべて自分の好きにやっていいということ、それは一見とても素晴らしいことのように思えるけれど、一切合財を自分の判断でやらなければならないということでもある。好きにやれる反面、負うリスクも少なくない。
エリアを決める。役割を決める。その中で選手達は夫々の創造性と技術力を駆使して役割を全うする。各自の持ち場、任務が明確だから、失敗があっても誰かのせいにすることが出来ず、また果たせなければ次はない。
後半に試合を決める、というには少々泥臭いゴールを決めて、結果、6連勝。だけどそんなにチームは強いようには見えない。自分達にもまた「攻撃サッカー」を貫いてこようとした過去3年間の思いがあるから、「勝っている」ということだけで満足はできない。そしてその希求は、自分達を現状に満足させない、程よい渇きになってるようにも思えて。組織的な守備が出来てきたなら、今度は攻撃を。選手達の与えられる役割レベルを、個々の技術を、少しづつ上げて。上へ、上へ、上へ。止まない想い。
月曜日出社して、昼休み。上役に「(土曜は)試合に間に合ったのか」と聞かれる。早退して試合に入って、尚且つ試合に間に合ったかどうか心配していただける、我ながら出来た職場だ。
「エー十分ですよ、14時から試合でしたから」
「13時からじゃなかったのか! 途中でテレビ見てたぞ。笹が(客席に)映らないか見てた」
「会議の間になんで皆でテレビ見るんですか!」
「コンサドーレも日ハムもどっちもすごいよなー」
こんな会話をあたりまえのようにしているけれど、これはきっととてもステキなことなのだ。
生活の中に何気なくサッカーが、チームが息をしていること。息を、させること。町ゆく人の携帯に何気なくついてるドーレくんのマスコットストラップ。いかにもサポーター仕様の車。サッカーを語ること、時に「弱いね」と嫌味をいわれること。でも、どんなものであってもそこに札幌というチームがあることを、みんな知っている。
実際にスタジアムに足を運ぶまででなくても、そこに「それ」があることを、みんな知っている。私達は自分達で意識せぬまま、無造作にチームという名の球根をそこかしこに植えている。このところの連勝という天気に誘われて、既に咲いているものもあれば、芽を出すことを待っていたり、花を開かせるのを待っていたりするものもある。
日曜日のサテライトの試合のとき、仲間がこんなことを言った。
「昨日友達の行った小学校の運動会でね、コンサのレプリカ着てる子がいっぱいいたんだって。去年はハムのレプリカ着てる子のほうが多かったんだけど、今年はコンサのほうが多かったって。そしてコンサのレプリカ着てる子がね、みんな足が速いんだって」
レプリカを着て運動会で走っていた子供達はたぶん試合を見られていない。運動会が終わったあとその子供も家族も、試合の結果をきっと喜んだだろう。家族でご機嫌な土曜日を、きっと過ごせただろう。そういうちいさなことの積み重ねが、チームを札幌の街、北海道にとってかけがえのない花畑のようなものにしてゆくのだ。そして私達はその花畑をあたりまえのように見るともなく眺め、また球根を植えていく。
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